「結婚式は楽しくなくっちゃ!地元長野が大好き。でも…コロナ禍のおかげで、さらに広い世界への扉が開きました」フリーウェディングプランナー・熊谷麻里子

更新日:2022.12.02

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「太陽みたいな笑顔のウェディングプランナー」熊谷麻里子さんに初めてお会いした瞬間の印象です。
軽井沢&長野を中心に活動する熊谷さんのプランナーキャリアは、なんと25年。
フリーのウェディングプランナーの概念が日本にほとんど浸透していない、周囲にはフリーランスの先輩は誰もいない2008年に家庭の事情で独立し、14年の月日が流れました。
周囲から「熊谷さん、結婚式の相談にのって!」の声に応え続け、自然と「フリープランナー」の道を切り拓いていった、まさに草分け的なキャリアの持ち主です。
初印象で感じた太陽のイメージそのままに、明るくしなやかに結婚式を楽しんでプロデュースし、かかわるひとすべてを明るい気持ちにさせる…。 プランナーとしてだけでなく、夢も仕事も母親業も全部楽しむひとりの女性として、熊谷さんのポジティブな半生とキャリアを伺いました。

「結婚式は楽しくなくっちゃ!」結婚式を悩む新郎新婦の気持ちは今も昔も変わらない

熊谷さんが支配人まで務められた、大好きなゲストハウスを退職されたのは、息子さんたちが当時打ち込んでいた野球により専念できる環境づくりのためだったと伺っています。

熊谷 はい。長男が6年生で「中学に入って部活しようか、学校外のシニアリーグに入ろうか」選択する時期でした。 シニアリーグを選択した場合、家族も一緒に応援に行き、アナウンス当番やお茶当番、遠征に同行する役割があるんですね。

土日が仕事では活動での役割を担えないし、息子が野球により専念する環境を叶えてあげられない…と悩んだとき、息子が「いいよ、お母さんは仕事を続けていいよ」と言ってくれたんですね。
でも、息子たちと向き合う時間は今しかないし、考えてもどうしようもない。悩む間もなく退職を選びました。
次のお客様の打ち合わせが始まれば、もう最後まで見届けたくなってしまいます。また半年後、また半年後…となってしまうのが分かっていましたから。

そこからフリーランスのウエディングプランナーとしての活動が始まったのですね。もちろん土日は息子さんたちの活動に付き添うわけで、最初の頃は「ウエディングプロデュース」がメインの活動ではなかったのですか?

熊谷 はい。しばらくは子どもに寄り添うほうを中心にしようと考えていたので、積極的に何かをはじめよう…なんて、具体的に深く考えていなかったんです。

フリーランスで活動を始めた2008年というと、まだフリープランナーの概念がブライダル業界にほとんど浸透していなかった頃ですよね。

熊谷 フリープランナーの”はしり”となった方が精力的に活動的にされていたのは知っていたので、「なんか、いいな」とあこがれていたのは覚えてます。
ところが、いろいろな方面から「辞めたんですか?熊谷さんに結婚式について相談したいんですが…」といった声がかかるようになりました。
最初は今のようにサロンも構えていなかったので、カフェやファミレスに集合して、新郎新婦の結婚式にまつわるさまざまな相談ごとに乗っていて…そんなスタートでしたね。

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フリーになったばかりの熊谷さんのもとに、新郎新婦からどのような相談事が持ち込まれたのでしょうか。

熊谷 軽井沢をはじめ、長野は自然豊かな地域でリゾート地として有名な地域です。 素敵な景色や建物が多いので、「専門会場だけが結婚式をやる場所ではない」といった考え方が、ある一定の割合で根付いていたんだと感じています。

それで、セルフプロデュースで「家族だけの結婚式をペンションでやりたい」「温泉旅館で結婚式をやろう」と、新郎新婦みずから結婚式を計画する人も、割と多かったんですよ。昔から。
「プロに依頼するほどじゃないだろう。自分たちだけでできるだろう」とオリジナルウェディングの計画を実際始めたものの…やっぱり大変なんです。結婚式準備って。
どうやって続けていくか分からなくなってしまって「熊谷さん、ここからどうしたらいいですか?」といった相談を持ち込まれるケースが、当初は多かったです。

いまで言うところの「ポイントプロデュース」や「 セカンドプランナー」的な役割を、自然と最初から担ってきていたんですね。 実際に屋号を持って、フリープランナーとして本格的に始動されたのはいつからですか?

熊谷 そのすぐ後ぐらいですね。 子供たちや自分のプライベートを優先的にした中でも、立ち止まりたくなかったんです。 当時始まったばかりのInstagramやFacebookを開始して、また『結婚式は楽しくなくっちゃ!』をタイトルにブログも開始し、さまざまな発信をしました。

いつかブライダル業界に戻りたいのもありましたし、「何かできることないかな…」と考えていた頃がちょうど「結婚式をしない層」いわゆる”ナシ婚”の方たちがどんどん増えてきた時期でした。
「結婚式をしようか、しないか」迷ってる人たちに、まずは話を聞いて、相談に乗りたいと考えたんです。結婚式の良さを広げていきたい強い思いが、始まりでした。

「結婚式をするか、しないか」で悩んでる人って、どんな悩みを抱えながら熊谷さんのもとに来るんでしょうか。

熊谷 「なにがしたいとかは特にないけど結婚式場での結婚式は嫌なんです」
「いかにもな結婚式が嫌で結婚式をしたくないのでしなくてもいいかな」
「他にできるところってあるんですか?」
「結婚式場じゃないところでパーティをしたいのですが、そんな結婚式ってありなんでしょうか」
…といった相談が入口ですね。

お話をよくよく聞くと
「会場はどこでもいいんです。チャペルが白でも茶色でも、ステンドクラスがあってもなくても。そういう結婚式がピンとこないんです」
といったフレーズにたどり着くんです。
ならば、一般的な結婚式の形に興味が持てないだけで、ふたりにとってもっと大事な「やりたいこと」が必ずあるはずなんですよ。

だから、「ナシ婚」に悩む人にとって、会場や場所は重要ではないんです。
「呼びたい方たちとどんなふうに過ごしたいか」がふたりにとっては一番大事で、それがかなう場所をふたりと一緒に探していく…。
会場プランナー時代にも既に感じていた「違和感」が、フリーになって明確になり、おふたりに寄り添える方法を模索していくうちに、さまざまなウェディングスタイルを手がけるようになりました。

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【軽井沢&長野のよさを知り尽くす!枠にとらわれない幅広いウェディング会場と経験値】
ウェディングプランナー歴25年、フリープランナー歴14年。
すでに自身のキャリアの半分以上はフリーで実績を積み上げてきた熊谷さんの手がけてきたウェディング会場のバリエーションは、あまりにも多彩。
フリープランナーのウェディング実例でよく見聞きする「レストランやキャンプ場」以外に、彼女が今まで手がけてきた一例を挙げると…。
美術館、ワイナリーやブドウ畑、長野の山、思い出の学校、神社やお寺や宿坊、旅館やコテージ、新郎新婦の職場の老人福祉施設etc…。
「こんなところが会場になるんだ!結婚式ができるんだ!」と驚くとともに、ふたりの人柄や背景まで想像を搔き立てられる会場のチョイスがあまりにもドラマティック。
彼女のもとに「結婚式について相談したい」新郎新婦がひっきりなしに訪れるのもうなずける。

熊谷さんは、当時まだサービスを開始したばかりのSNSやブログにも早々と参入し、本格的にオリジナルウェディングについて潜在ニーズを持っている「ナシ婚」層の方々にアプローチしていったんですね。反響はいかがでしたか?

熊谷 ブログ経由でお問い合わせをくださる方が多かったですね。
また、地元のフリーペーパーにも掲載を出したりしてアプローチしました。地方では結婚式をする本人たちにアプローチするのも大事ですが、家族・親族・知人にアプローチするのも大切だとプランナー時代に実感していたので。
まだ何も決まっていないけど「いつか」と考える未来の新郎新婦にも「こんな結婚式もあるんだ」と間口を広げて興味を持って欲しかったんです。
それ以外にもプレ花嫁に向けたプチセミナーや座談会、オフ会も企画しました。

今でこそプレ花嫁に向けた各イベントは浸透していますが、その当時からすでにさまざまな媒体でアプローチしていた目の付け所が素敵です。
フリープランナーとして屋号をもち、14年以上が経過しています。相談を開始した当時と、現在とで「ナシ婚」について考える新郎新婦の悩みの内容で、変わってきた部分はあるのでしょうか。

熊谷 いいえ。
「いまある結婚式の形だと結婚式はしなくてもいいかな。でも自分たちにあう形があるなら結婚式をしてもいいかな」という相談の内容は、14年前とほとんど変わっていないんです。
私自身も、新郎新婦に対してアプローチの方法は年月を経て変わっていますが「ふたりにあった結婚式を提案し、プロデュースしたい」「結婚式を心から楽しんでもらいたい」気持ちは、ひとつも変わっていません。

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【新郎新婦の「やりたい、持ち込みたい」希望をすべて叶えまとめあげる】
今年手がけた、古民家リノベーションした自宅をウェディング会場にした「夏の自宅結婚式」。
家族、親戚がゲストして集まり、美容師の弟さんにヘアセットしてもらって、お子さまとお揃いのドレスを着て…。この日のために、テーブルも、下駄箱も、輪投げも、菓子釣も、全部ふたりの手作りや持ち込みによってプロデュース。
フリープランナーによっては「クリエイターは固定」「アートディレクションやフォトグラファーは固定」という方針をとるケースも多いなか、熊谷さんは「クリエイターもアイテムも会場も、すべて持ち込みOK!」
新郎新婦が希望する料理人、フォトグラファー、ヘアメイク、フラワーショップをはじめとしたクリエイター…初めましての全部をひっくるめてコミュニケーションをとり、根回しして、包み込み、新郎新婦の「やりたい!」に寄り添って結婚式を作り上げていく。
「個性がないかな…なんでも屋さんになっちゃいますかね」と熊谷さんは苦笑いするが、並大抵のキャリアやスキルのプランナーでは成し遂げられないプロデュースだ。

「プランナーも楽しくなくっちゃ!」自分をプランナーにしてくれた人たちのために

ご自身が結婚式をしてからブライダル業界に興味をもって、出産後にウェディングプランナーとして本格的に活動を始めた経緯も驚きです。
多くの方は結婚を機に退職してしまう例が多い業界なので…。

熊谷 ブライダル業界に興味をもった、そもそもきっかけが、自分の結婚式なんです。私の両親は不仲で…私自身が「結婚」にも「結婚式」にも憧れがなく、ナシ婚の方たちに近い考えでした。
その頃は「イミテーションの大きなケーキを飾って、ホテルに100人以上招待して」といった結婚式がまだ多かった時代です。
いざ自分の”結婚”になって「普通の結婚式はちょっと違うな…」と考え、いまでいう「プロデュース会社」を入れて計画したんです。

高原の小さな教会で挙式をした後に移動してレストランウエディングをして、ケーキは生ケーキで、生演奏の演出を入れて…。
今だったら「オリジナルウェディング」はみんなが知っていて、そんな結婚式は珍しくないのですが、その走りのような結婚式をしました。 準備を含めた「結婚式」があまりにも楽しくて、そのお手伝いをする「ウエディングプランナー」の仕事に興味をもったんです。
また、結婚式を経験して、親に対する思いも変わりました。「不思議なパワーが結婚式にはある」と身に染みて感じたんです。

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それでは、ほんとうに結婚式を終えた後からが「ブライダル業界」へのスタートだったんですね。

熊谷 結婚して子どもが生まれて普通にパートをして…でもやっぱりブライダルの仕事が忘れられなくて。
これをやりたいって思ったら引かない性格を家族はよくわかってるので、相談する時は「もう決まってるんでしょう」みたいな感じで、応援してくれました。
いまも協力してくれています。

実はブライダル業界への入口は「プランナー」ではなかったんですよね。

熊谷 はい(笑)何かしらウェディングに関わりたくて…ブライダル奏者になるためのシンセサイザーのレッスンが入口です。
そこからプランナーになるため通信教育で勉強したり、さまざまな幸運やひととの出会いがあって、ゲストハウスのウェディングプランナーに就きました。
初めてプランナーとしてチャペルの掃除をしているとき、泣きそうなほど嬉しかった気持ちを今でもはっきりと覚えています。
といっても子育てと並行してなので、2・3年間はパートとして働き、その後正社員になり、最後はゲストハウスの支配人を任せていただきました。
本当にありがたいです。周りの人のおかげでプランナーになれたんだと感謝しています。

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ずっと憧れて、そしてプランナーのキャリアをつちかった会場を去る時は、断腸の思いだったでしょう。
また「家庭と仕事」の両立は、決して平坦ではなかったはずです。直近でいえば、ブライダル業界を直撃したコロナ禍も、ブライダルに関わるすべてのひとが「大変だった」はずです。
でも、熊谷さんとの会話から一言も「大変だった」といった、後ろ向きな言葉は一度も出てきません。むしろ「楽しかった、いまも楽しい」お話ばかりです。

熊谷 「大好きな仕事なので、嫌いになりたくない」気持ちが強く、どんなに忙しいときも「心をなくさないように」と自分に言い聞かせています。
また、今まで結婚式のお手伝いさせていただいた新郎新婦様から「コロナ禍で大丈夫ですか。頑張ってください」と応援してくれる人が、つながりからどんどん増えていくんです。
とても嬉しかったです。

そういう人がいる限り「頑張らなくっちゃ」って思えるんですよね。
家族も子どもたちも「頑張れ」と応援してくれる。子どもたちの小さいころ…もしかしたら寂しい思いをさせたかもしれないけど、 一緒に頑張ってくれていました。
だから、簡単に「辞めたい」なんていわない、思わないように。
「結婚式は楽しくなくっちゃ!」のフレーズは、自分自身にとっても大切な言葉なんです。
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【先輩として、先生として、後輩に後ろ姿を見せ続ける】
フリーランスになってから専門学校のブライダルコースの講師も長年務める熊谷さん。 未来の後輩であり、かつ、いつか花嫁・花婿として巣立っていく若いひとたちの「リアルなトレンドや夢について知りたい」と、教壇に立ち続けている。
各式場へと巣立っていった卒業生たちとのつながりは今でも多く、大切にしている。
結婚を機に辞めてしまうプランナーが多いブライダル業界のなか結婚を機にブライダル業界入りし、妻と母とプランナー業を両立しながらキャリアを続けてきた熊谷さんの生き方に、今でも多くの後輩たちが相談に訪れるそう。

「コロナ禍も楽しくなくっちゃ!」世情も年齢も自分のブライダルの世界を広げる機会

2020年、21年とコロナ禍がブライダル業界を直撃しました。熊谷さんにとってのコロナ禍は、どのような期間だったのでしょうか。

熊谷 結婚式が現代まで「残っている」そして「大切にする」セレモニーである事実は、シンプルにすごいんだなと実感しました。
そして「やっぱり結婚式っていいな」と変わらず強く思っています。

コロナ禍でほとんどのお客様が延期、または無期延期になって、1年間で施工がゼロ件みたいな空白の時間ができて…。
その時間を勉強会に参加したり、自分のキャリアを見直して、スキルアップに繋げようと思ったんです。
さまざまな年代のプランナーの皆さんと知り合う機会をいただき、ふと周囲を見渡して見ると、フォトウェディングプランを企画するプランナーの方たちも多かったんですが…。
「あ、私が軸足を置きたいのは、大事にしたいのは、やっぱり結婚式なんだな」とより強く実感する機会になりました。

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【プランナーとしての活躍の場は地域も世代も超えて広がる】
熊谷さんは現在長野在住。長年地元を中心にオリジナルウェディングのプロデュースを手がけてきたが、近年は「知人の紹介」や「以前担当した方の兄弟姉妹」といった紹介での問い合わせが多く、県外での結婚式プロデュースも増加している。
そしていよいよ次世代からの依頼も…「熊谷さんに担当してもらった、親からの紹介で」といった方も出現。姉妹の結婚式も両方担当したケースでは「我が家専属のプランナーさん」と認知されている一家とのお付き合いもあるそう。
Lejuインタビューでも若手フリープランナーから「結婚式のその先、担当した方の人生に関わっていけるプランナーを目指したい」を目標に掲げる声をよく聞くが、熊谷さんはその関係性を着実に実現しているのだ。

熊谷さんはこれまで、自分のペースでフリープランナーとしての経験を積んでこられました。 ですが、コロナ禍をきっかけに、ウェディングプランナーのオンライン勉強会に積極的に参加したとうかがいました。自身で何か変わった、または得た経験はありますか?

熊谷 実は、2022年は昨年と違って、すごく忙しくさせてもらっているんです。今まで延期した方たちの施行が一気に始まりましたから。
ただ忙しい日々のなかで、自分のキャリアや年齢的な部分で「このままでいいのかな?」と考えてしまう年でもありました。

ブライダル業界のオンラインセミナーにたくさん参加させていただき、全国のフリープランナーの方と知り合う機会をいただきました。
いろいろな方の意見を聞いていると「ウェディングプランナーの働き方」のなかで「40超えたら引退して別の道のキャリアを考えている」という方もいらっしゃって…。

私はまだまだプランナーでいたいし、なんなら生まれ変わってもまたプランナーになると決めているのです。
でも他の方の考えや働き方を一気に目の当たりにして「辞めないといけない時期がくるのかな?」「働き方を変えないといけないのかな?」と、迷いが生じる時期もありました。

もっと集客をがんばらないといけない?
もっとトレンドのウエディングを追ったほうがいい…?
いろいろ考えたんです。たくさんのプランナーさんたちとお話をしました。
そして、変わるのではなく「1組1組にもっと丁寧に寄り添って、自分の人生を豊かにしながら、楽しみながら」の自分らしい立ち位置は、改めて大切だと見直したところです。
大事にしながらも、何か新しいことを始めてみようか?と。

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【コロナ禍でも人生のあゆみはとまらなかった】
2020年、2021年に結婚式を検討し相談していたものの、コロナ禍で無期延期、または再考…となったままの新郎新婦も多かった。
が、コロナ禍が明ける兆しが見えたいま、続々と熊谷さんの元に「新たな家族」を形成し、戻りつつある。コロナ禍の間に新たないのちを授かり「家族3人の門出」としてのセレモニーを改めて依頼するケースも多いそう。
世情は明るくないニュースが多い期間だったが、熊谷さんにとってのコロナ禍は、自分のスキルやキャリアの見直しをはじめ、仕事上でもさまざまな出会いがあったそう
「コロナ禍は、ウェディングプランナーとして第2章の準備期間でした」

お話しを聞いていて、熊谷さんの迷いが吹っ切れて、新たなトビラが開いたと感じます。今後何か新たに挑戦したいウエディングスタイルやプランナーとしての目標はありますか?

熊谷 具体的になにが、というプランや目標はないのですが、コロナ禍のオンライン勉強会で知り合った全国のプランナーの方々から受けた刺激やご縁を活かしていきたいと思っています。
実は2021年に、オンラインでご縁をいただいた沖縄のプランナーの方と一緒に「ダブルプランナー制」で、沖縄の無人島での結婚式をプロデュースしたんです。
無人島といっても、アクティビティや観光できる施設はある島なんですが。
沖縄のプランナーさんに色々情報を提供してもらって、それを元に長野で私がまとめて…
今までもダブルプランナーでのプロデュース経験はありましたが、ここまで遠方での施行は初めてだったので「コロナ禍で得たご縁が、こんなにもプロデュースの世界を広げてくれるんだ」と実感しました。
フリーランスのプランナーのあり方としても、可能性としても。

今までプロデュースでは踏み入れなかった、沖縄での結婚式提案の枠が、確実に広がりますよね。「新婚旅行を兼ねて、リゾート地で結婚式をしたい。 でも”いかにも”な結婚式プランはピンとこない…」といった方に、リゾート選びから相談にのってあげられそうです。

熊谷 フリープランナーの友人や知人が日本全国・世界中にいれば、おふたりにご提案できるエリアの幅も大きく広がります。
また、おふたりも新婚旅行の思い出の場所に「現地の知人」ができるんです。
現に沖縄で結婚式を挙げたおふたりは、沖縄側のプランナーさんと地元の季節のフルーツを送りあうなど、素敵な交友関係が続いています。

ふたりが思い出の場所を訪れたとき、その地でふたりと結婚式の思い出を共有した、会いたい人が待ってくれている…そんな関係性が広がっていくのも、とても嬉しいですね。
私も、いろんなエリアにこれからも行きたいんです。

お話を聞いて、熊谷さんは「ひととひと」のすてきな縁を繋げて、輪をどんどん大きくする天才だと感じました。
それが、熊谷さんのプロデュースするウェディングの最大の特色で、新郎新婦にとって最高のギフトなんですね。

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【コロナ禍のおかげで全国のプランナーとの交流の道が開いた】
コロナ禍でおこなわれた、沖縄の無人島結婚式は、沖縄が大好きな長野在住の新郎新婦の依頼。コロナ禍の勉強会でつながりを得た沖縄のプランナーに熊谷さんが協力をもちかけ「Wプランナー制」で実現した。
長野から自分と馴染みのあるフォトグラファーやアートディレクターを連れていくこともできたが「地元をよく知っているひとがいい」と沖縄在住のクリエイターを紹介してもらい、 全員の協力で沖縄の無人島の会場のポテンシャルをあますことなく利用できた楽しいウェディングに。
未知の土地も新しいひとも常に受け入れ、結婚式を最高に楽しく作り上げるのは常に「楽しまなくっちゃ」精神のたまもの。
熊谷さんの次の目標は、ハワイでのオーダーメイドウェディング&子どもたちのウェディングプロデュース。 ハワイウェディングは旅行会社のパックプランではなく、おいしいレストランや美しい砂浜での式を、さまざまな「ひととのつながり」で実現したいそう。

フリーウェディングプランナー【熊谷 麻里子】profile

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レストランプロデュース会社、ゲストハウスでウェディングプランナー&支配人を経験し、プランナーキャリアは25年。
プライベートではふたりの息子の母。
「息子たちが野球に専念する環境を叶えてあげたい、息子たちのいまに向き合いたい」気持ちを優先し、
2008年よりフリープランナーとしての働き方に転向する。

以降「結婚式は楽しくなくっちゃ!」をコンセプトに、結婚式に悩む新郎新婦の相談にのり、ふたりらしい結婚式を作り上げる。
地元である軽井沢&長野を中心に、バリエーション豊かな会場でのオリジナリティあふれるウェディングスタイルをプロデュース。
プランナー業の傍ら、専門学校のブライダルプロデュースコース講師も長年続けており、後進の育成にも力を注いでいる。

プロデューサーズ・ウェディング(公式)
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